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美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ:富田林市宮町)~二上山を仰ぐ大国主命の荒御魂と地元の出雲伝承

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    美具久留御魂神という聴き慣れないお名前なのですが、この神様は大国主命の荒御魂の事です。「延喜式」神名帳に載る式内社で、貴志宮、和爾宮、下水分神社とも呼ばれました。ご祭神はその美具久留御魂神、天水分神、弥都波廼売(みずはのめ)神、国水分神、須勢理比売命の五柱。(個人的には実家の近い)この南河内地域に出雲の神が祀られる社が鎮座する事にとても興味を覚えました。しかも、だいたい東方向(真東ではない)に二上山が拝める地でもあります。つまり、その向こうには 多神社 、そして 大神神社 が鎮座する 三輪山 があるのです。   ・こちらが正面から見た入口の鳥居。見出し写真は神社側から二上山を望んだ絶景   神社の語るご由緒は、以下の通りです。古代のこの一帯は「支子(きし)の茅原」と呼ばれ、崇神天皇10年、この地に大蛇が多く出没し、農民を悩ませていました。天皇は、゛これは大国主命の荒御魂のなせる仕業であろう゛と仰せられ、祀らしめました。その後、同天皇62年に、丹波の氷上の人で名は氷香戸辺の子に、゛水草の中に沈んでる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の宝。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の主゛という神託があります。天皇はそれを聞いて、皇子の活目入彦命をこの支子に遣わし、美具久留御魂神を祀らせたのです。神託はこの神を゛出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾神(龍神)でり、水泳御魂大神である゛と明らかにされたものでした。ご由緒では、氷香戸辺の子の御神託のくだりが「日本書紀」崇神紀60年条の記載と重なりますが、年数が2年ずれています(ただ、「日本書紀」に合わせているご由緒説明板もありました)。   ・下拝殿。割拝殿でその奥に上拝殿と本殿への昇り階段が続きます   「日本の神々 河内」で古田実氏の記述によると、古代の祭祀氏族は不明ですが、当地より少し東方の一帯はいずれも貴志台地上にあり、弥生時代中期から後期にかけての有名な遺跡が並んでいます。さらに約2キロ北方の羽曳野市西浦小学校の校庭からは、弥生末期の突線紐式近畿型袈裟襷文銅鐸(高さ89センチ)の完成品が昭和53年に出土しています。これらの発掘成果から、この付近一帯には弥生時代の河内先住支配者が居住

神武天皇 畝傍山東北陵(橿原市大久保町)~橿原神宮も鎮座する記紀説話の聖地

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  一般に日本の最も古い゛歴史書゛と言われる「古事記」「日本書紀」で、万世一系の系譜を持たれる皇統の始祖、初代天皇とされている神武天皇の陵墓(宮内庁が管理する皇室の先祖の墳墓)です。写真の通り、ものすごく高い杉の整然とした林に挟まれた、玉砂利が敷かれた長い参道のアプローチが神威に溢れ、とても広大な敷地(東西500m、南北400m)には圧倒されます。さらにこの陵墓の拝所にはご丁寧に手水舎もあり、特別な信仰の場である事が感じられますが、木々が繁っているのみで墳丘らしき築造物は見えません。   ・入口から威厳ある空間で立派です   この墳墓の場所について、「古事記」は゛畝傍山の北側の白檮尾のほとりにある゛とし、「日本書紀」は゛畝傍山の東北゛、そして「延喜式」神名帳では゛大和国高市郡に在る。兆域東西一町。南北二町。守戸五烟(墓守が5軒)゛と書かれています。古代墳墓・古墳は律令制の衰退で荒廃していきますが、江戸時代になり起こった勤皇思想を背景に、幕府による陵墓の補修工事が4回(元禄、享保、安政、文久年間)行われました。中でも文久の修陵(1862-1865)が最も大規模で、この畝傍山東北陵もその時に整備されました。   ・杉林の絶壁の中、折れ曲がると陵が遠くに見えてきます   文久の修陵に際し、その陵墓の特定で゛随分議論が交わされ、簡単に説明できないほど事が入り組んでいる゛という春成秀爾氏の話を、「天皇陵の謎」で矢澤高太郎氏が紹介しています。当時は以下の候補地が有ったそうです。 丸山 : 畝傍山の北東の裾。御殿山と呼ばれる尾根の上。「古事記」の記述に一致。 ミサンザイ(現在地) : 畝傍山の北東約600m。「神武田」と呼ばれる水田。残丘のような二つの土饅頭がある。ミサンザイは御陵を意味する関西地方の方言。「日本書紀」の記述に一致。 塚山(現綏靖天皇陵) : 元禄の修陵時から神武天皇陵とされていた。地元の四条村には神武天皇陵の伝承があった。その時の報告書「諸陵周垣成就記」には明確に古墳が描かれている。また、山稜絵図「廟陵記」には神武帝と明記される。「日本書紀」の記述に一致。 スイセン塚古墳 : 本居宣長が「菅笠日記」で、塚山古墳説を批判し、こちらがふさわしいと主張。「東北陵」は方角を間違えており、「古事記」に合うのは当時の綏靖帝陵の「すいぜゐ塚(ス