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八咫烏神社(やたがらすじんじゃ:宇陀市榛原高塚)~宇陀に坐すサッカー日本代表のシンボル神を祀った人々とは

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  とてものどかで車で気持ちよく走れる県道31号線沿いにおもむろに鳥居が現われます。神社までは鳥居をくぐって一直線ですが、1台分しか幅がないので、対向車がない事を確認して突っ走ると到着します。鳥見、榛原、墨坂などの「日本書紀」にある地名の痕跡が今も残る宇陀の地で、ずばりヤタガラスの名を掲げる神社です。八咫烏といえば、サッカー日本代表とも縁の深い熊野本宮大社が有名ですが、八咫烏は皇軍を宇陀まで導いたというのですから、宇陀の方も熊野に負けないくらいの縁が有ると思います。   ・境内入口横には、「陵墓」にあるような注意書き看板があります   【ご祭神・ご由緒】 ご祭神は、建角御神。「延喜式」神名帳の頭注に゛八咫烏は 賀茂建角身命 なり゛と書かれていて、式内社八咫烏神社だと考えられています。記紀の話が有名ですが、「新撰姓氏録」にも、鴨県主と賀茂県主は同祖で、神武天皇が大和に入ろうとして熊野山中で路に迷った時、鴨建角身命が鳥と化して先導した功によって八咫烏の称号を賜ったと書かれます。「続日本紀」の慶運二年(705年)に、八咫烏神社を大和国宇陀郡に創建した事が明記されているのですが、鎮座地の詳細は記されてないようです。   ・二の鳥居   【祭祀氏族・神階・幣帛等】 「国民郷土記」に、宇陀郡の郷士高塚刑部、葛野一郎について、゛高塚刑部、八咫烏社慶運二年玉り、八咫烏子孫葛野氏也。葛野才一郎、八咫烏孫葛野氏也。鴨武隅命也。鴨明神明神鳴神御祖高ツカ村ニ廟社祭゛とあります。「日本の神々 大和」で小田基彦氏は、戦国末期のこの両名が古代鴨氏の末裔だとは思えないが、鴨氏の子孫と称する人々が鷹塚に居住し、八咫烏神社を鴨氏の祖廟として祀り、それを背後に団結をかためていたのだろう、と述べられています。   ・境内はゆとりある空間で、周囲は社叢に囲まれ凛としています   【鎮座地、発掘遺跡】 「宇陀郡史料」所収の「大和国町村誌集」に、゛現在の社は世俗これを「おとごろす」とも称す、八咫烏の転訛ならんか゛と記されて、一時名前も忘れられていたようです。「神名帳考証」(1733年)は゛今鷹塚村にあり僅かに遺址存せり゛と書き、「大和名所図会」(1791年)は゛八咫烏神社鷹塚村にあり、いつの代よりか社頽廃して礎のみ遺れり゛とあります。鎮座地については、いずれも鷹塚村だとされ

石津太神社(いわつたじんじゃ:堺市西区)~やっさいほっさい祭の戎社と゛石津原゛の石津ヶ丘ミサンザイ古墳

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   ゛泉州の奇祭゛として、堺市の指定無形民俗文化財にもなっているやっさいほっさい祭が、毎年12月14日に行われる事で有名な神社です。祭だけでなく、社殿(拝殿、南/北本殿)や境内の鳥居(一の鳥居、二の鳥居)も有形文化財に指定されていて、堺の街中にあって貴重な歴史史蹟となっています。式内論社として、石津神社(陸の戎)と並び称されますが、今回は石津太神社を参拝し、併せて日本で3番目の大きさをほこる陵墓である石津ヶ丘ミサンザイ古墳を訪れました。   ・一の鳥居の社号 ・一の鳥居前の「五色の石」   【ご祭神・ご由緒】 恵比須様こと蛭子命(八重事代主命)と、石津連の祖神天穂日命。伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた蛭子命は三歳になっても立つことができなかったので、天磐樟船に乗せられて流し捨てられました。その船が漂着したのが石津浜で、命はその時五色の石をもっておられたので「神石」「石津」の地名が生まれた、と言われています。これに対し、「日本の神々 和泉」で林利喜雄氏は、エビス信仰が入ってからの伝承であり、もともと石津連の祖神を祀ったものだろう、と考えておられます。   ・二の鳥居と境内   【祭祀氏族・神階・幣帛等】 「延喜式」神名帳の和泉国大鳥郡の「石津太神社」として載る式内社(下記の通り、論社)。「新撰姓氏録」和泉国神別には、゛石津連。天穂日命十四世の孫野見宿禰の後なり゛と記されます。   ・拝殿。入母屋造、軒唐破風付   【歴史】 社伝では、孝昭天皇七壬申年八月十日創建と伝えます。往古は八町四方の規模を誇っていて、孝徳天皇、孝謙天皇、後醍醐天皇らの行幸があり、奉幣を賜ったと伝えられます。また、豊臣秀吉らの保護、援助を受け、大阪城築城時の鬼門固めの為、社殿造営には黄金が下されたようです、それも大阪冬・夏の陣で焼失し、古文書や社宝なども失われてしまいました。   ・北本殿。一間社流造、正面千鳥破風・軒唐破風付   【鎮座地、発掘遺跡】 中世以来、紀州街道・小栗街道の道筋にも人が増え、石津郷が上下二村に分かれた事で、神社もそれぞれに氏神として二つに分かれたようです。800m内陸にある石津神社(陸の戎)も同じような社伝を持ち、もはやどちらが最初に創建された地なのか判断しにくくなっていて、神社として甲乙つけがたい格式をそなえて

等乃伎神社(とのきじんじゃ:高石市取石)~「播磨国風土記」の異剣(あやしきつるぎ)と楠巨木の伝承

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    鎮守の森がそろそろ近づいてきたくらいの道端で、゛よそでは手に入りにくい御守゛と書かれた年季の入った看板がまず目に入り、さらに鎮守の森の道路沿いにも同じ文言の看板(下写真)で再三PRされます。参拝した時は残念ながら授与所は閉まっていたのですが、そのPR通り沢山の種類のお守りが取りそろえられてる事で有名な神社です。境内は2694坪とかなり広く、高樹の御由緒のある社叢が鬱蒼と茂っていて高石市の数少ない自然保護樹林に指定されています。   ・神社北側の通りからの社叢「霞の森」と看板   【ご祭神・ご由緒】 現在のご祭神は、主祭神が天児屋根命。相殿神に、誉田別命、菅原道真、大歳神、壺大神。当社は通称「天神社」ともいわれるようですが、これは菅原道真公を祀ったからではなく、当社の日神祭祀からそう呼ばれたのだろうと、「日本の神々 和泉」で大和岩雄氏が書かれています。「泉州志」に、道真公が祀られたのは1679年の増祇によるとあり、「和泉名所図会」にも゛殿木氏の祖神、今、天神と称す゛と書かれています。   ・鳥居をくぐって境内に入ると、祓岩がお出迎え   この地は、「古事記」の仁徳天皇条に記事があります。゛この御世に、免寸河の西に一つの高樹有りき。その樹の影、旦日(あさひ)に当たれば、淡道島におよび、夕日に当たれば、高安山を超えき。故、この樹を切りて船を作りしに、甚早く行く船なりき゛ここでの「免寸河」を、中村啓信氏「古事記」(角川ソフィア文庫)は「兎寸(ウサキ)」としていますが、過去には武田祐吉氏が「免寸(ウキ)」、次田潤氏、神田秀夫氏、太田善磨氏、西宮一民氏、土橋寛氏、青木和夫氏、小林芳規氏、倉野憲司氏らは「免寸(トノキ)」と訓でたようです。「トノキ」とするのは、この河を等乃伎神社の横を流れていた川と考えての事で、大和氏はこの説で論考を進めておられます。 上記の「古事記」の伝承は、その後に続く話に、船が淡路島から聖水を運んだとあるので、淡路の海人が伝えたとするのが通説です。一方、「日本書紀」の応神紀にも同様の話があり、最後に船が武庫水門の失火で焼け、新羅王が猪名部の始祖を送ってくる顛末になっています。土橋寛氏は、「古事記」やこの「書紀」の所伝には、「後漢書」の影響も有る事から新羅系帰化人が関与していると考えられ、大和氏は猪名部だと特定されています。

鍬山神社(くわやまじんじゃ:京都府亀岡市上矢田町)~゛矢田の紅葉゛の名所に潜む、出雲神と八幡神の不和伝説

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   ゛矢田の紅葉゛と呼ばれて、その真っ赤に燃えるような紅葉で知られる神社です。本年度から11月の紅葉期には駐車料金を頂きます、との神社公式HPの案内が有った事から、その直前の時期に参拝させていただきました・・・境内をじっくり拝見したいこともありますので。色づき情報では「青葉」でしたが、色づきが始まった時期で紅葉の雰囲気はある程度味わう事が出来ました。さすがに名所という事で、カメラを片手に撮影に訪れる方が何人もおられました。   ・枚方亀岡線沿いの大鳥居。境内と駐車場はこの少し奥です   【ご祭神・ご由緒】 鍬山宮に祀られるのは大巳貴神こと大国主神。そして、一応境内社の八幡宮に応神天皇がお祭りされています。 社伝では創建は709年とされる、桑田郡所属の式内社です。太古、亀岡盆地は沼胡で大蛇のひそむところだったのを、出雲大神が八神と黒柄山で話合い、鍬で浮田の峡(保津峡)を掘り開き、水を山城国に流して今のような平地にしました。そして、人々は出雲大神を天岡山(面降山)の麓に祭って、「鍬山大明神」として崇めました。以来、この神は神無月の 出雲大社 での神の集まりには参加せず、郡内の八社がこの神社に集まったとの伝えもあるようです。 神社の名前の由来としては、先の社伝にある゛鍬゛が山を成したから、と言う所伝があり、また近くの大堰川の右岸にも大山咋神を鋤に象徴して祀るという桑田神社があります。明治以前には請田(うけた:浮田)大明神と呼ばれ、黒柄山に集まった八神の一神だったとのこと。対岸にも大山咋命を祀る請田神社があります。「日本の神々 丹波」で植木行宣氏は、同じ伝説にもとづく作為の説ともとれなくはないが、開拓神にふさわしい興味ある伝承だと考えられていました。 八幡神については、1165年天岡山に天降られたので鍬山宮の傍らに祀られましたが、夜ごと雷雨があり社辺に殺伐の声があって翌朝には鳩と莵が多く死んでいたので、莵(出雲神)と鳩(八幡神)の争闘を不和の現れとみた村人が、八幡宮を杉谷に移し祀ったという伝説が残っています。   ・生い茂る木々の奥に拝殿が見えます ・拝殿の奥に鍬山宮(左)と八幡宮が並び建ちます   【中世以降歴史】 中世に、丹波に本拠を置いた丹波猿楽が知られていましたが、綾部市の梅若猿楽、日吉猿楽とともにこの地の矢田猿楽が中心でした。

誉田八幡宮(こんだはちまんぐう:羽曳野市誉田)~誉田御廟山古墳の被葬者や武家に信仰された歴史のこと

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    2019年に 百舌鳥古墳群 とともに世界文化遺産となった、古市古墳群の盟主陵墓である誉 田御廟山古墳(いわゆる応神天皇陵)の後円部に接して鎮座し、 古くから御陵祭祀を司り続けた宗廟です。ご祭神は誉田御廟山古 墳の埋葬者とされる品陀別(ほんだわけ)命こと応神天皇、そして仲哀 天皇、神功皇后のご両親を主祭神とし、住吉三神を合祀します。陵墓の祭祀が 付属する神社に発展した、全国でも極めて稀な神社といわれます。   ・南大門と神社石標。左に見えるのは、秋祭り準備中の地域の地車。(☝見出し写真は東門側)   社伝の「誉田宗廟縁起」によれば、欽明天皇がこの誉田陵に参拝 した折(559年とされる)に、新羅に滅ぼされた任那日本府の再 興実現を祈念して、 後円部の頂上に神廟式の小社殿を造営したの が当社の始まりで、 以後聖徳太子、僧行基、僧空海、菅原道真ら そうそうたる人達が 参詣したと伝わります。ただ、神社としての 始まりは、平安中期、 1051年に冷泉天皇の勅命により前九年の役 の早期平定を祈念して、 誉田陵の南の現在地に新社殿を造営した 事でした。したがって、 式外社です。   ・ゆったりした境内と長大な割拝殿   文久の御陵修築の時期まで、後円部の後ろ側より濠を渡って後円 部の階段を登り、頂上部の六角形の建物に参拝できるようになっ ていました。鎌倉末期に築造の放生橋が現存しており、近年まで例 祭の渡御 神事では神輿がこの橋を渡り、後円部南側の中堤まで入って祭祀 を行っていました。今はすぐ横の新しい橋を渡っています。なお、通常は橋の所から立ち入り禁止です。応神 八幡社は全 国に祀られていますが、それは上記の当社殿創建の後、 平安 期後 半以降のことです。   ・拝所。社務所もあります。   鎌倉初期の1196年に、源頼朝が社殿及び神宮寺の長野山護国寺の 伽藍を再営し、国宝となる螺鈿金銅飾りの神輿や長刀・刀剣・神 馬を奉納し、以降、北条氏や足利氏もこれに倣います。南北朝時代から戦国時代末期にかけては誉田一族によって守護され、兵火を受けるたびに再建されています。室町中期 の1433年、足利義教が高野山を参詣した際に当社を訪れ、誉田御 廟縁起三巻、神功皇后縁起二巻が痛んでいるのを見て、再製を発 願。1435年に複製五巻が完成し神社に奉納されま