石津太神社(いわつたじんじゃ:堺市西区)~やっさいほっさい祭の戎社と゛石津原゛の石津ヶ丘ミサンザイ古墳
゛泉州の奇祭゛として、堺市の指定無形民俗文化財にもなっているやっさいほっさい祭が、毎年12月14日に行われる事で有名な神社です。祭だけでなく、社殿(拝殿、南/北本殿)や境内の鳥居(一の鳥居、二の鳥居)も有形文化財に指定されていて、堺の街中にあって貴重な歴史史蹟となっています。式内論社として、石津神社(陸の戎)と並び称されますが、今回は石津太神社を参拝し、併せて日本で3番目の大きさをほこる陵墓である石津ヶ丘ミサンザイ古墳を訪れました。
・一の鳥居の社号
・一の鳥居前の「五色の石」
【ご祭神・ご由緒】
恵比須様こと蛭子命(八重事代主命)と、石津連の祖神天穂日命。伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた蛭子命は三歳になっても立つことができなかったので、天磐樟船に乗せられて流し捨てられました。その船が漂着したのが石津浜で、命はその時五色の石をもっておられたので「神石」「石津」の地名が生まれた、と言われています。これに対し、「日本の神々 和泉」で林利喜雄氏は、エビス信仰が入ってからの伝承であり、もともと石津連の祖神を祀ったものだろう、と考えておられます。
・二の鳥居と境内
【祭祀氏族・神階・幣帛等】
「延喜式」神名帳の和泉国大鳥郡の「石津太神社」として載る式内社(下記の通り、論社)。「新撰姓氏録」和泉国神別には、゛石津連。天穂日命十四世の孫野見宿禰の後なり゛と記されます。
・拝殿。入母屋造、軒唐破風付
【歴史】
社伝では、孝昭天皇七壬申年八月十日創建と伝えます。往古は八町四方の規模を誇っていて、孝徳天皇、孝謙天皇、後醍醐天皇らの行幸があり、奉幣を賜ったと伝えられます。また、豊臣秀吉らの保護、援助を受け、大阪城築城時の鬼門固めの為、社殿造営には黄金が下されたようです、それも大阪冬・夏の陣で焼失し、古文書や社宝なども失われてしまいました。
・北本殿。一間社流造、正面千鳥破風・軒唐破風付
【鎮座地、発掘遺跡】
中世以来、紀州街道・小栗街道の道筋にも人が増え、石津郷が上下二村に分かれた事で、神社もそれぞれに氏神として二つに分かれたようです。800m内陸にある石津神社(陸の戎)も同じような社伝を持ち、もはやどちらが最初に創建された地なのか判断しにくくなっていて、神社として甲乙つけがたい格式をそなえている、と林氏は言われます。石津神社の東北東には乳の岡古墳があり、東南約800mには弥生時代の石津川四ツ池遺跡も確認されています。
・南本殿。一間社春日造。軒唐破風付
【境内、周辺遺構】
第一鳥居の社号「石津太社神社」は、明治六年の三条実美公参詣の時の染筆です。境内には戎神の腰掛石があり、そして第一鳥居向かいに五彩の神石を埋めたと伝わる塚があります。さらに、神社西方500m、204号海岸通りと29号大阪臨海線の中間点の石津川右岸に、石津太神社御旅所として蛭子命漂着の地の「磐山」があります。二つの本殿は、共に17世紀中頃の築造で、それぞれ春日造と流造と形式を変えていますが、真正面から見ると同じに見える(おそらく流造の屋根以外が)そうです。本殿に合わせてか拝殿も馬道が二つ有るという珍しい形態です。
・腰掛石
・祭事のある広場。焼却炉がなんとなく雰囲気を醸しています
【祭祀・神事】
有名な当社の「やっさいほっさい祭」の火渡神事は、NHK-BS「新日本風土記」の堺の回でその様子が紹介された事があります。蛭子命が漂着した陰暦十一月十四日、凍えておられた命の為に、浜の人々が火を焚いてさし上げたのが祭りの始まり。現在は十二月十四日、まず御旅所まで御霊を迎えに行きます。そして夜になって、境内に積まれた薪に点火して崩してならした後に、まず一人が恵比寿様を温める道を作ります。そして、(蛭子命の役である)神人一人を胴持、足持の三人(以前は「日本の神々 和泉」の記載から二人だったよう)で仰向けに担ぎ、炎々と燃え盛る灰の中を゛やっさい、ほっさい゛と掛け声をかけながら火渡りするという神事です。祭に関わる人は゛火傷ありき゛で臨まれ、番組でも案の定、火傷された方が足を冷やされる場面がありました。
神事の後の、一生ご利益が切れないという燃えカスの炭を手に取る参拝者の表情からは、今も本当に篤く信仰されている事が伝わってきました。林氏によると、当社は熊野街道に面し、修験道者が古くから立ち寄ったので、この神事には修験道的要素が含まれてると考えられています。
・履中天皇陵拝所。住宅街の間にあります
【石津ヶ丘ミサンザイ古墳(履中天皇陵)】
日本で3番目に大きい前方後円墳です。現在は、墳丘の形状や出土した埴輪などから、大山古墳(仁徳天皇陵)に先立って5世紀初頭までに築かれたと考えれれています。特にミサンザイ古墳の埴輪は古い野焼き式で、大山古墳は窯で焼いた埴輪であるのが分かりやすい違いです。昭和61年には蓋形や家形、靭形などの形象埴輪が採取されており、なかでも靭形埴輪は高さ1.4m、最大幅1.1mの超大型品でした。レーザー測量による等高線をみると築造時の段丘が奇麗に残っていて(一方、大山古墳は結構崩れている)、「土の企画美」が高く評価されてるようです。前方部墳頂に2段の丸い土壇が認められ、埋葬施設ではないかと言う人もおられるそうです。
・前方部付近遊歩道より。後円部にもビュースポットがあります
【伝承】
「出雲と蘇我王朝」で斎木雲州氏は、天穂日命の子孫である出雲国造家が、3世紀のおそらく国造になって以降に、旧東出雲王家の向(富)氏に嫁を求めてきて血縁関係が出来たので、もともと王家が名乗った「出雲臣」を国造家も名乗り始めた話をされます。「臣」は出雲王家発祥というのです。また同書では、「先代旧事本紀」で上海上国造は天穂日命ノ孫と書かれるが、正しくは゛(西出雲王家)神門臣・振根ノ子孫゛だといい、また同じく安房国造家が穂日命の後の大伴直大滝からとするのを、正しくは゛神門臣家大伴の後゛だと正します。つまり、古代日本の各地に広がった出雲人は、旧出雲王国王家の関係者であり、天穂日命後裔の出雲国造家とは本来関係ないと主張されているのです。
そして、事代主命や野見宿禰は共に東出雲王家富氏の御方であるので、当社は出雲から大和にやって来た野見宿禰の後裔である石津氏が、王家の有名人事代主命を祀ったのが始まりではないか、という推測もできそうです。同じ戎信仰でも、西宮神社の成り立ちとは違うように感じています。だから、柏原市の金山孫・金山孫女神社、堺市の陶荒田神社、富田林市の美具久留御魂神社などでの伝承から感じた、河内・和泉地域での古代出雲人の居住を偲ばせる神社だと思っています。そして、野見宿禰は土師氏につながるので、石津連もニサンザイ古墳など百舌鳥古墳群の築造に力を奮ったかもしれない、と想像しています。
・石津太神社御旅所
「日本書紀」仁徳紀67年に、゛河内の石津原においでになり、陵地を定められた゛とあります。ミサンザイ古墳の地名は今も「石津ヶ丘」です。「仁徳や若タケル大君」(富士林雅樹氏)、「お伽話とモデル」(斎木雲州氏)によれば、この地は昔石津村といい、一方大山古墳の地は舳松(ヘノマツ)村だったので、石津ヶ丘こそが仁徳紀の記事に一致するとします。ただし、ミサンザイが鳥のミソサザイのことでオオサザキを意味するとの出雲伝承の説明は、首肯しかねます。ミサンザイは墳墓の関西言葉で、他の古墳でも使われてるからです。
・蛭子命漂着の地の「磐山」
(参考文献:石津田神社公式ご由緒、堺観光ガイドHP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 河内」、矢澤高太郎「天皇陵の謎」、今尾文昭「天皇陵古墳を歩く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、梅原猛「葬られた王朝」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)