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葛木御歳神社(かつらぎみとしじんじゃ:中鴨社、御所市東持田)~出雲神話の姫と年神様の関係

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   同じ葛城の 高鴨神社(上鴨社) 及び 鴨都波神社(下鴨社) と並んで 中鴨社と呼ばれ、同じく弥生時代の古い時代から祀られて いたとされる由緒ある古社です。しかし、近年は人の手が入らな い時期が続き、摂社や社務所は壁が壊れ、屋根には穴が開いてい るという状態にまでなっていたのを、そもそも地域や神社とは縁 のない現在の東川宮司が、インターネットやクラウドファンディ ン グなどの現代らしいスマート・ツールを駆使したり、カフェを併設してライブも開催されるな どで 今の姿に復興された事が、 メデ ィアやニュースでよく取 り上げら れているのを見かけます。   ・ご祭神が鎮まる御歳山。最初の鳥居の奥に第2駐車場があり、神社はもう少し奥です   「延喜式」神名帳では葛上郡の名神大社。現在のご祭神は御歳神。 相殿が御歳神の父神で、須佐之男命の御子神である大年神と、大国 主の御子神である高照姫命です。「日本の神々 大和」で木村芳 一氏は、御歳は゛御稔゛の事といわれ、全ての穀物を司る神だと 書かれています。住吉大社の有名な御田植神事で、豊穣祈願の神 楽 を踊る女性のことを、゛御稔女゛と言いますね。当社ではご利益、ご神 徳として、五穀豊穣・稲の守り神のほか、万物育成の神、年を司 る年神さま、お 年玉の由来に関わる神を挙げておられます。   ・木の陰に神社名を刻んだ石標があります   「三代実録」の859年には神階が、従一位というトップレベルに昇叙されたと記録され てます。また同書の870年7月22日の項には、河内国の堤防工事に 際して、水害を恐れて大和国の三歳神、 大和神 、広瀬神、龍田神に 奉幣したと有ります。河内国の水源は大和国から出ているためと の事ですが、ここから当社の神威が大和をこえて河内にまでおよ ぶと考えられていた事がわかり、改めて当時、国家にとってとても重要 な神様だったと実感できます 。   ・境内正面の拝殿   「新撰姓氏録」の大和国雑姓には゛三歳祝。大物主神五世孫意富 太多根子命之後也゛と神主の記述が有るようですが、なぜか神主を置くことに 消極的な時期もあったとの記録もあります。でも今の時代にそん な 状態になったらどうなるかは、以前の神社の状況から明白です 。   ・拝殿向かって右側の境内社。事代主命神社、天稚彦命神社、稚

葛木坐火雷神社2(かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ、笛吹神社:葛城市笛吹)~古墳の被葬者と尾張氏

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前篇からの続きです。 前篇では 、「火雷社」と「笛吹社」の呼称の歴史や、笛吹連の事などについて確認されている事をまとめました。   社殿奥には、笛吹神社古墳があります。自然石を積んだ横穴式石室が開口していて、内部には長さ約2.5m、幅約1.5m、高さ約1.4mの凝灰岩によるくり抜き式家型石棺が置かれています。「日本の神々 大和」で木村氏が引用した比嘉紀美枝氏の説明では、神社が古墳の前に祀られる例は少なく、古墳があるとは知らずに神社を祀ったとも考えられるが、ここに居住した笛吹連が祖先の墓の祖廟として神社が築かれたとも推定できる、と述べられています。当社では、これが笛吹連の始祖・櫂子に繋がる健多乎利命(たけたおり)の墓との伝承を紹介されていますが、やはり横穴式石室で6世紀前半の造営と見られるので、後述するようにあくまで信仰と捉えておきたいです。   ・大砲のある広庭から見た拝殿   前編1で記載しました通り、「火雷社」と「笛吹社」の関係の変遷がよくわからなく、ロマンを感じる処ですが、 東出雲王国伝承 では、丹後を本貫とする海部氏(当時まだその名でなく、アマ氏)が大和の葛城に移住した時に初めて祀った神社であり、天村雲命が父の天香語山命を祀ったと書いています。火雷神については、一般に言われる通り金属精錬の神であり、出雲から摂津三島を経由して 先に葛城に入っていた登美氏 と共に初期ヤマト政権(いわゆる葛城王国)を運営し、この地でタタラ製鉄をしていた話をしますが、神社創建の時に同時に祀ったとははっきり書かれていません。   ・拝殿。社殿のある敷地は狭いです。奥に見える表示の先に古墳があります   たしかに丹後地方は、大和に鉄器が流通していない頃から鉄器加工をしていた事が 発掘成果 からも言えるようで、その技術を葛城に持ち込んだ事が想定されます。そうして、゛高尾張邑に赤銅の八十梟師あり゛と書かれたとおり、地名から尾張氏の名が生まれ、海部氏から分かれたと出雲伝承では説明されています。なお、尾張氏については 鏡作坐天照御魂神社の記事 で記載しました。   ・拝殿左から入ると、笛吹神社古墳(左)と本殿が見えてきます   東出雲伝承では、笛吹連については、ほぼ「新撰姓氏録」通りの説明がされ、天香語山の子孫と書かれます。また、「親魏和王の都」で勝友彦氏は

葛木坐火雷神社1(かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ、笛吹神社:葛城市笛吹)~二つの神社名の経緯の不思議

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    古代史に縁の深い葛城地域の有名な幾つかの神社の中で北寄りに位置し、鎮座地から奈良盆地方面を望むと、だいたい西側に畝傍山が、さらにその向こうに天香久山が並ぶ絶景が望めます。現在は笛吹神社名も併記されているようで、由緒ある古社として認識していましたが、最近ではあの大ヒットアニメ「鬼滅の刃」に登場するキャラクターが繰り出す大技「火雷神」と同じ社号だったことから、アニメファン、コスプレファンの訪問が多いそうです。宮司さんも、「更衣室は有りません」とうれしい(?)悲鳴を語られています。最新の公式ホームページでも関連するお願いをいくつかされてて、御配慮されるのが良いと思います。   ・神社入口。上の見出し写真は、少し下ったあたりより。真ん中が畝傍山。その右奥が天香久山。左が耳成山   「三代実録」では859年に正三位勲二等から従二位に昇叙されたことが見え、「延喜式」神名帳では忍海郡三座の筆頭に゛葛木坐火雷神社二坐゛とあり二坐とも大社になっています。祈年祭のほか、名神祭、月次祭、相嘗祭、新嘗祭にも官幣に預かりましたが、以降、「延喜式」のこの名前では正史から見えなくなっていくのです。中世以降は、もっぱら゛笛吹神社゛と呼ばれましたが、火雷社と笛吹社がもともと同一のものか、並立していたかが今となっては分からないと、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が書かれていました。   ・笛吹の杜   笛吹神社は、新庄町柿本にある光現寺にある大般若経の1157年の奥書に゛笛吹大明神゛と記され、藤原清輔撰の「奧儀抄」に゛笛吹の社よりはゝかの木を切りて 都に奉りぬれば・・・゛とあり、平安時代には存在が確かめられていますが、それ以前の笛吹社の表記はないようです。木村氏によれば、当社の南側の小字をヒノミヤといい、これを火雷宮の転訛したものとするならば、火雷神社は笛吹神社と接近してそこにあり、やがて卜占で著名になった笛吹神社に社地を奪われたとも考えられるようです。 江戸時代には、「大和志」に゛笛吹村笛吹神祠の傍らに在り゛と書かれており、火雷神社は笛吹神社の末社のようになって別々だったことが確認できます。それが、明治7年、笛吹社に火雷社が合祀されて、この時に社名を「延喜式」当時の名前に戻し、郷社に列せられました。ただ、神社の説明によれば、地元の人々には笛吹神社の名称の方で今も親しま