葛木坐火雷神社2(かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ、笛吹神社:葛城市笛吹)~古墳の被葬者と尾張氏
前篇からの続きです。前篇では、「火雷社」と「笛吹社」の呼称の歴史や、笛吹連の事などについて確認されている事をまとめました。
社殿奥には、笛吹神社古墳があります。自然石を積んだ横穴式石室が開口していて、内部には長さ約2.5m、幅約1.5m、高さ約1.4mの凝灰岩によるくり抜き式家型石棺が置かれています。「日本の神々 大和」で木村氏が引用した比嘉紀美枝氏の説明では、神社が古墳の前に祀られる例は少なく、古墳があるとは知らずに神社を祀ったとも考えられるが、ここに居住した笛吹連が祖先の墓の祖廟として神社が築かれたとも推定できる、と述べられています。当社では、これが笛吹連の始祖・櫂子に繋がる健多乎利命(たけたおり)の墓との伝承を紹介されていますが、やはり横穴式石室で6世紀前半の造営と見られるので、後述するようにあくまで信仰と捉えておきたいです。
・大砲のある広庭から見た拝殿
前編1で記載しました通り、「火雷社」と「笛吹社」の関係の変遷がよくわからなく、ロマンを感じる処ですが、東出雲王国伝承では、丹後を本貫とする海部氏(当時まだその名でなく、アマ氏)が大和の葛城に移住した時に初めて祀った神社であり、天村雲命が父の天香語山命を祀ったと書いています。火雷神については、一般に言われる通り金属精錬の神であり、出雲から摂津三島を経由して先に葛城に入っていた登美氏と共に初期ヤマト政権(いわゆる葛城王国)を運営し、この地でタタラ製鉄をしていた話をしますが、神社創建の時に同時に祀ったとははっきり書かれていません。
・拝殿。社殿のある敷地は狭いです。奥に見える表示の先に古墳があります
たしかに丹後地方は、大和に鉄器が流通していない頃から鉄器加工をしていた事が発掘成果からも言えるようで、その技術を葛城に持ち込んだ事が想定されます。そうして、゛高尾張邑に赤銅の八十梟師あり゛と書かれたとおり、地名から尾張氏の名が生まれ、海部氏から分かれたと出雲伝承では説明されています。なお、尾張氏については鏡作坐天照御魂神社の記事で記載しました。
・拝殿左から入ると、笛吹神社古墳(左)と本殿が見えてきます
東出雲伝承では、笛吹連については、ほぼ「新撰姓氏録」通りの説明がされ、天香語山の子孫と書かれます。また、「親魏和王の都」で勝友彦氏は、前篇1の記事で記載した、建埴安彦が崇神帝に協力したという神社の旧記を引用(崇神帝の名は東出雲伝承との整合のためか省略)し、了承されています。また、神社の言う古墳の埋葬者、健多乎利命が注目されます。「先代旧事本記」の天香語山命の系譜で、建斗米命と中名草姫の間の児で、建田背命と兄弟となる御方です。とすると、笛吹連は2世紀頃に尾張氏から分かれたように見えます。また、勝氏は上記の書で゛(在来の)ヤマト王国の豪族たちの内部に分裂が起きた。高鴨氏(西出雲より移住)と尾張氏の一部が熊野側に付いた゛と書かれます。つまり、笛吹連は在来の海部・尾張氏系氏族の中で早々に九州東征勢力に協力した人達のように見えてきます。
・本殿は珍しい平入の神明造。
・反対側から千木、鰹木も確認できました
東出雲伝承では、建斗米命や健多乎利命は尾張氏の系譜に入り、「海部氏勘注系図」や同伝承では建田背命は海部氏の御方となっていて「先代旧事本記」とは微妙に違います。そして、富士林雅樹氏の「出雲王国とヤマト政権」に載る系譜図では、健多乎利命(単に多乎利)の母は、カッコ付きであの名草戸畔だとされているのです。本文説明では、彦五瀬命との戦いの後で、尾張家に輿入れしたとなっています。やはり名草戸畔は誅殺などされておらず、ご結婚され笛吹連の始祖に繋がる御方を生んでおられたということです。
・笛吹神社古墳。墳丘前と石室開口にはしっかり閉ざされています
海部氏は秦国の時代に中国から渡来したハタ氏だと、東出雲伝承は主張しています。この原ハタ氏は中国から土笛(陶塤)を持ってきて吹いていたそうで、それが松江市や京丹後市など日本海側で出土しています。この海部氏の習慣から、祭神の香語山命が音楽の祖神とも考えられたと、伝承は説明します。おそらく笛の音(大和では竹笛を使ってたとのこと)は集団の象徴として良く目立ったのでしょう。
・墳丘規模は東西約25m、南北約20m、高さ約4m。玄室、羨道合わせて石室長狭は12.5m
笛吹神社古墳を含む笛吹古墳群は総数80基ほどの古墳からなり、多くが横穴式石室であり、副葬品からは朝鮮渡来系氏族の忍海氏に関わった古墳群と見る考えがあるようです。これに関係しそうな話として、応神期に渡来した秦氏も葛城、御所に居住したと言われますから、この笛吹の地で原ハタ氏である海部・尾張氏系の人達となんらかの交流があったのでは、などと想像してみたいです。秦氏はその後、賀茂氏(元は登美氏)と岡田加茂(岡田鴨神社)を経由して、山城へ移って行ったと考えられています。
・拝殿前から大砲と広庭を見下ろす。
残念ながら東出雲伝承では、「延喜式」の二座がどの神様だったのか、中世に火雷神社と笛吹神社が並立したのか、或いは変わっていったのか、という目線での話はなく、元々は金属精錬と笛吹の両方に熟達していた人たちが祀った神社だったという説明です。やはり、笛吹連の祖が、元々葛城王国側だったはずなのに、その葛城王国の御方を討ち日向東征勢力側で功を上げたかのような神社の旧記が気になります。また、6世紀築造の地域の中心的な古墳の横に神社が有る事実は、創建時期を考える上では重要な感じがしています。
(参考文献:葛木坐火雷神社公式HP、サイト「邪馬台国大研究」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、梅原猛「葬られた王朝」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)