投稿

10月, 2021の投稿を表示しています

誉田八幡宮(こんだはちまんぐう:羽曳野市誉田)~誉田御廟山古墳の被葬者や武家に信仰された歴史のこと

イメージ
    2019年に 百舌鳥古墳群 とともに世界文化遺産となった、古市古墳群の盟主陵墓である誉 田御廟山古墳(いわゆる応神天皇陵)の後円部に接して鎮座し、 古くから御陵祭祀を司り続けた宗廟です。ご祭神は誉田御廟山古 墳の埋葬者とされる品陀別(ほんだわけ)命こと応神天皇、そして仲哀 天皇、神功皇后のご両親を主祭神とし、住吉三神を合祀します。陵墓の祭祀が 付属する神社に発展した、全国でも極めて稀な神社といわれます。   ・南大門と神社石標。左に見えるのは、秋祭り準備中の地域の地車。(☝見出し写真は東門側)   社伝の「誉田宗廟縁起」によれば、欽明天皇がこの誉田陵に参拝 した折(559年とされる)に、新羅に滅ぼされた任那日本府の再 興実現を祈念して、 後円部の頂上に神廟式の小社殿を造営したの が当社の始まりで、 以後聖徳太子、僧行基、僧空海、菅原道真ら そうそうたる人達が 参詣したと伝わります。ただ、神社としての 始まりは、平安中期、 1051年に冷泉天皇の勅命により前九年の役 の早期平定を祈念して、 誉田陵の南の現在地に新社殿を造営した 事でした。したがって、 式外社です。   ・ゆったりした境内と長大な割拝殿   文久の御陵修築の時期まで、後円部の後ろ側より濠を渡って後円 部の階段を登り、頂上部の六角形の建物に参拝できるようになっ ていました。鎌倉末期に築造の放生橋が現存しており、近年まで例 祭の渡御 神事では神輿がこの橋を渡り、後円部南側の中堤まで入って祭祀 を行っていました。今はすぐ横の新しい橋を渡っています。なお、通常は橋の所から立ち入り禁止です。応神 八幡社は全 国に祀られていますが、それは上記の当社殿創建の後、 平安 期後 半以降のことです。   ・拝所。社務所もあります。   鎌倉初期の1196年に、源頼朝が社殿及び神宮寺の長野山護国寺の 伽藍を再営し、国宝となる螺鈿金銅飾りの神輿や長刀・刀剣・神 馬を奉納し、以降、北条氏や足利氏もこれに倣います。南北朝時代から戦国時代末期にかけては誉田一族によって守護され、兵火を受けるたびに再建されています。室町中期 の1433年、足利義教が高野山を参詣した際に当社を訪れ、誉田御 廟縁起三巻、神功皇后縁起二巻が痛んでいるのを見て、再製を発 願。1435年に複製五巻が完成し神社に奉納されま

村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ:磯城郡田原本町)~気になる神社名の姫

イメージ
  山の辺の道の錚々たる各社や 多神社 、 鏡作神社 などの有名な神社に囲まれて、ひそやかに信仰を伝えているのかと思いきや、ホームページを拝見するとご祭神のイラストやYoutubeアニメ、月替わりの色鮮やかな御朱印や授与品としてヴォイスドラマCDも取りそろえるという、積極的に今時の人の心へ寄り添おうとされている、興味深い神社です。このコロナ禍でもアマビエ様のイラスト御朱印で悪疫退散の御神威を発揮されています。そもそもが日本を代表する 大神神社 のご祭神大物主命つまりは大国主命の妃神・三穂津姫命(「日本書紀」による)を主神としてお祀り(大国主命も配祀)するという「大神神社別宮」の由緒ある社格を存分に活かされていると言えます。ご利益は、縁結び、家内安全、そして商売繁盛です。   ・境内までの参道   「延喜式」神名帳では「村屋坐弥冨都比売神社」で多くの書がこれにならいますが、「和州旧跡幽考」には「村屋神社」と書かれる他、江戸時代には「天王」「森屋神社」「森屋社」「森屋明神」と呼ばれたようです。後述する中世以降の歴史の影響と思われます。当社のご祭神については、 江戸時代の多くの書では三穂津姫命だけとされており、一方「和州旧跡幽考」「大和名所図会」では韴霊劔(ふつのみたまのつるぎ)だとの異説も存在します。   ・境内   この地の国史上の初見は「日本書紀」天武元年7月条の壬申の乱のくだりです。まず、近江軍の将、犬養連五十君が中道からきて村屋に駐屯した、とあります。更に、天武側の高市軍の大領高市県主許梅に、高市社(川俣神社)の事代主と牟狭社(牟狭坐神社か橿原市の生国魂神社か)の生霊神が神がかって大坂からの壱伎史韓国の来襲を予言した後に、村屋神の祭神も神官(神社によると22代当主・室屋喜久麿)に神がかって中の道からの廬井造鯨の軍勢を予言したと書かれています。さらに、730年の「大倭国正税帳」には村屋神戸、祖41束などと見えていて、「新抄格勅符抄」(806年)には神戸六戸と有ります。神階は「三代実録」で859年に゛村屋三穂津姫神゛として従五位上に昇叙されてます。   ・拝殿   由緒としては、明治6年に氏子十四カ村が大阪府へ出した願書にも説明が有ります。「日本書紀」にあるように、大国主神(大物主神)は高皇産霊神の命によって三穂津姫を妻としましたが、