村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ:磯城郡田原本町)~気になる神社名の姫
山の辺の道の錚々たる各社や多神社、鏡作神社などの有名な神社に囲まれて、ひそやかに信仰を伝えているのかと思いきや、ホームページを拝見するとご祭神のイラストやYoutubeアニメ、月替わりの色鮮やかな御朱印や授与品としてヴォイスドラマCDも取りそろえるという、積極的に今時の人の心へ寄り添おうとされている、興味深い神社です。このコロナ禍でもアマビエ様のイラスト御朱印で悪疫退散の御神威を発揮されています。そもそもが日本を代表する大神神社のご祭神大物主命つまりは大国主命の妃神・三穂津姫命(「日本書紀」による)を主神としてお祀り(大国主命も配祀)するという「大神神社別宮」の由緒ある社格を存分に活かされていると言えます。ご利益は、縁結び、家内安全、そして商売繁盛です。
・境内までの参道
「延喜式」神名帳では「村屋坐弥冨都比売神社」で多くの書がこれにならいますが、「和州旧跡幽考」には「村屋神社」と書かれる他、江戸時代には「天王」「森屋神社」「森屋社」「森屋明神」と呼ばれたようです。後述する中世以降の歴史の影響と思われます。当社のご祭神については、江戸時代の多くの書では三穂津姫命だけとされており、一方「和州旧跡幽考」「大和名所図会」では韴霊劔(ふつのみたまのつるぎ)だとの異説も存在します。
・境内
この地の国史上の初見は「日本書紀」天武元年7月条の壬申の乱のくだりです。まず、近江軍の将、犬養連五十君が中道からきて村屋に駐屯した、とあります。更に、天武側の高市軍の大領高市県主許梅に、高市社(川俣神社)の事代主と牟狭社(牟狭坐神社か橿原市の生国魂神社か)の生霊神が神がかって大坂からの壱伎史韓国の来襲を予言した後に、村屋神の祭神も神官(神社によると22代当主・室屋喜久麿)に神がかって中の道からの廬井造鯨の軍勢を予言したと書かれています。さらに、730年の「大倭国正税帳」には村屋神戸、祖41束などと見えていて、「新抄格勅符抄」(806年)には神戸六戸と有ります。神階は「三代実録」で859年に゛村屋三穂津姫神゛として従五位上に昇叙されてます。
・拝殿
由緒としては、明治6年に氏子十四カ村が大阪府へ出した願書にも説明が有ります。「日本書紀」にあるように、大国主神(大物主神)は高皇産霊神の命によって三穂津姫を妻としましたが、後に三室の丘に住むことになり、そのとき三穂津姫神は村屋に移ってきました。その後、神武天皇元年に踏鞴五十鈴姫命に村屋の神を祭祀させ、垂仁天皇7年伊香色雄命の子物部十千根命に命じて弥富都比売神へ大物主神を合祀させ、推古天皇元年、物部忍勝連公が世襲の祝の職を継いだそうです。以上、個々の具体的事蹟は記紀を下敷きにしてるようで、後述するようにあくまで信仰ではないかと個人的に思います。ここで大事なのは大きな流れなのでしょう。
・全てのご祭神についてアニメ風イラスト付きの解説があります
1183年に火災にあって以降、衰微。かつては式下一郡の惣社を誇りましたが、正慶年間(1330-34)以降に縮小していくのです。社家はすべて社地に住居を移し、これを村屋垣内、村屋村といい、当社は通称森屋あるいは森屋の宮と呼ばれました。さらに天正年間(1573-92)には神領・社地をことごとく没収され、社家・社坊も廃絶しました。そしてこの時期、1573年に服部神社が、そして1584年(1573年とも書かれる)村屋神社がそれぞれ境内に遷され、1584年には久須須美神社も森屋垣内に遷されたのです。久須須美神社は1866年には境内に遷座します。それぞれ「延喜式」神名帳の「服部神社二座」「村屋神社二座」「久須須美神社」に比定される神社です。
・本殿。内陣の部分に破風のついた三間社流造
1599年、神主政重は氏子十四カ村に頼み、拝殿を再建。神領没収後は、祭費・修繕費・神主家・社人らの賄費用はすべてを郷中氏子十四村の高割(石高に応じて割り当て)とされました。明治6年に村社となりますが、氏子十四カ村が鏡作神社へ編入されるというので、郷社復旧と当社への所属を願う運動として願書をまとめ、結果認められました。このように、歴史をたどると地域の篤い信仰の賜物で存続してきた神社なのだという事がわかります。
・本殿左に隣接する服部神社
上記の願書には、推古帝の時期に大祝室屋邦重がおり、神職は代々室屋氏が世襲したと書かれるようですが、今も宮司を務められる守屋氏のことのようです。祖先の守屋筑前守は物部守屋の後裔と称して大和国一円の神職の取締役を務めていました。境内には池の奥の良い場所に物部神社の祠が鎮座しています。
・物部神社
三穂津姫を祀る有名な神社に島根県の美保神社があります。東出雲伝承を語る「出雲と蘇我王国」で斎木雲州氏は、東出雲王国の王家・富氏(向氏)の先祖事代主命を祀る為に、3ないし4世紀に美保神社を祀ったと書かれています。そして、゛本殿右側には(娘の)ミホススミ(御穂須々美)姫を三穂津姫の名前でまつった゛とも書かれています。素直に読めば「日本書紀」より前に三穂津姫の名が有ったようですが、そう読んで良いのでしょうか。確かなのは、美穂津姫の名前にされたミホススミ姫は富氏の御方という事です。つまり出雲伝承に馴染んだ身にとって当社名は、゛弥゛は美称、゛津(都)゛は助詞なので、「(東)出雲王国・富氏の姫の社」としか思えなくなってきます。しかし、出雲伝承によれば、ミホススミ姫は美保の地にいた御方で、奈良には来てないようです。
・村屋神社
それに対して、「日本書紀」が事代主命の娘だと書く踏鞴五十鈴姫は、出雲の松江から摂津三島の「登美の里」や葛城を経由して三輪山まで来たと伝承は言います。以降に続いた分家の゛登美゛氏も考慮すると多くの姫がいるでしょうが、゛富゛氏の姫となると、やはり踏鞴五十鈴姫を充てるのが一番素直です。それがなぜ、三穂津姫なのでしょうか?、実際は踏鞴五十鈴姫は三輪山の祭祀をしたけれども、天武・持統帝の時期にこの山が国津神を祀る山とされ、一方踏鞴五十鈴姫は皇統の始祖になった神武天皇の皇后とされた事から村屋社のご祭神としては難しくなり、「日本書紀」の記述もあるので、三穂津姫を村屋社のご祭神に勧請してきたのでは?という憶測をしています。9世紀にはご祭神が明記されているので、「日本書紀」後の早い時期にそうなったような感じがします。
・久須須美神社
壬申の乱の高市県主許梅の神がかりの中で村屋神の神名がない事について、村屋神社前の説明板で守屋広尚宮司が気にされています。当社の彌富都比売神は女神なので戦いにはしっくりこない事から、村屋社の二神、経津主神と武甕槌神の可能性に触れられますが、決定する資料がないと締められています。出雲伝承によると、事代主命はもちろんの事、生霊神も出雲の古い信仰だったらしいので、やはり踏鞴五十鈴姫だったのではないでしょうか。でも記紀制作の段階で上記理由からそれは難しくなり、代替案を決めようとするも時間切れで、結局省略されたままになったのでは、などと思いをめぐらしています。そんな神社の祝を物部氏系の御方が務め、由緒に物部十千根命も関わるというのは、出雲伝承とも整合してるように見えます。
或いは、美保神社がそもそも十千根命の子孫と出雲人の間の和解の象徴であったらしいので、そういう事情がこの弥冨都比売神社に関連しているのでしょうか。いろいろ興味はつきません。一方で、出雲伝承がなぜこのストレートに見える名前の神社を語らないのか、も気になります。
・そばを流れる初瀬川から見る三輪山。向かって右前にチラリと箸墓も見えます
(参考文献:村屋坐弥冨都比売神社公式ご由緒、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)