河内国一之宮 枚岡神社(ひらおかじんじゃ:東大阪市出雲井町)~゛出雲゛の名の地に鎮座する中臣氏の神社

  



だいたい大阪の淀川以北を除いた東半分にあたる河内国の一宮で、社伝による創建は紀元前とされる由緒正しい神社です(ちなみに、二宮が恩智神社)。社伝による創建は、神武天皇ご東征の3年前のBC663年。生駒山の戦いで無念の後退を御決意された際に、天児屋根命・比売御神の二柱の神を、現鎮座地後方の霊地神津嶽(かみつだけ)にお祀りされ熊野に向かわれました。神社後方の山は現在ハイキングコースになっていて、今回、大阪平野を一望できる枚岡山展望台を経由して、その本宮も参拝させていただきました。また、本殿が平成令和の大造営・第一期工事での修復を昨年10月に終えたばかりで、古来を復元した丹塗りの鮮やかさに神威を感じました。

 

・参道。近鉄枚岡駅を出てすぐに、見出し写真の鳥居があります

 

768年にその二柱が奈良の春日大社に祀られ、その為、この神社は「元春日」と呼ばれます。その後778年に春日大社より武甕槌命、経津主命を迎えて四座となりました。現在の社殿では、第一殿が天児屋根命、第二殿が比売御神、第三殿が経津主命、そして第四殿で武甕槌命がお祀りされていますが、特に国を平らげる武力と権威を現す神である武甕槌命にあやかれる勝運アップの神社として地元では有名で、ラグビーの近鉄ライナーズが毎年祈願に訪れるそうです。

 

・12月23日にこの注連縄を張り渡し、神職や参拝者が笑う注連縄掛神事(お笑い神事)があります。天岩戸神話にちなむもの

・拝殿

 

漢字表記についてですが、「続日本後紀」844年に゛平岡大神社゛「文徳実録」856年に゛平岡神゛、「三代実録」859年には゛枚岡天児屋根命・枚岡比売神゛。また865年には゛平岡神主゛、そして、「延喜式」神名帳(奥付927年)には゛枚岡神社四座゛と書かれていました。二つの表記の併用は近世まで続いたようで、今ある石標や境内の灯篭にも゛平岡゛と書かれています。鎮座地については、神社は650年に上記の神津嶽から遷されたと説明していますが、古い地名の枚岡郷は、現在地の旧名河内郡の隣の讃良郡に位置し、その枚岡郷から移ってきたという説もあるようです。

 

・本殿前の中門・透き塀

 

奈良春日大社での祭祀順は、第一殿が武甕槌命、第二殿が経津主命、そして天児屋根命・比売御神が続き、当社と違います。850年の春日社の神階は、武甕槌命、経津主命が正一位、天児屋根命が従一位、そして比売御神が正四位上となってますが、このように春日大社でも本来の祖神は、東国から持ってきた祭神より下位に置かれた、と「日本の神々 河内」で大和岩雄氏が気にされています。枚岡神社の天児屋根命が従一位となったのは856年であり、やはり遅れています。藤原氏は鹿島神宮にはしばしば鹿島使をたて、その使は香取神宮にもおもむいていましたが、藤原氏の氏人が枚岡神社に特別の参詣を行った記録は残ってないそうです。

 

・本殿。春日造。繁垂木のようです

 

「新撰姓氏録」の河内国神別の中臣系氏族には、菅生朝臣(天児屋根命の後)、中臣連(雷大臣命の後)、中臣酒屋連(真人連公の後)、村山連(中臣連同祖)、中臣高良比連(臣狭山命の後)、平岡連(鯛身臣の後)、川袴(カワマタ)連(梨富命の後)、中臣連(天児屋根命の後)、中臣(中臣高良比連同祖)、の九氏が載るようですが、大和氏によれば始めの五氏は丹比郡(今の松原、八尾、藤井寺、堺の一部など大阪の中南部)居住の中臣氏であり、後半四氏が北河内居住グループに入ります。川袴連は、彦坐命の後で日下部同祖の川俣公と共に川俣神社との関連が考えられる事から、牧岡神社の祭祀に直接関係するのは平岡連だと、大和氏は結論付けられてます。

 

・末社、一言主神社。

・若宮社敷地。第二期大造営でこれから新築されます。今は仮の祠にお祀りされてます(本殿の上写真の右)

 

中世以降は、平岡連の後裔と称している水走氏が宮司、鳥居氏が禰宜として奉仕されました。この水走姓について、大和氏は宮井義雄氏の説を引用されています。この名は、水利の管理者を意味するようで、゛社殿がもと出雲井と称する霊泉の直上にたてられていた事は、原初の霊泉信仰を想起させる・・・出雲井から連想されるのは、賀茂の出雲井於神社であろう。肥後和夫氏によれば、出雲井於神社も三井社も井上社も、ともに下賀茂の霊泉に立脚して定位された水神を祀ったのである゛枚岡神社が元々霊泉信仰で、下賀茂社と関わるとはとても興味深いですが、大和氏は、中臣氏は卜占に関わる氏族であり、「尊卑分脈」や「大中臣氏系図」等の記述から、本は卜部だったと考えられています。

 

・天神地祇社は、建築中

・透き塀前のご神木「柏槙(びゃくしん)」。昭和の第二室戸大風で損傷し、昭和40年代地上3メートルを残し伐採

 

東出雲王国伝承によると、宮中祭祀の中臣氏と、鎌足・不比等の藤原氏はともに鹿島神宮にルーツを持つそうです。前者が元神官で豊後国に移住した卜部の分家で、その地の中津彦大王の側近になって以降、王権と関わるようになったと説明します。一方、後者は鹿島神宮の社家の出身の占部で、前者の養子だったことから中臣を称していたとの話です。この話を前提にすると、上記のように藤原氏から枚岡社への特別参拝がない事は理解しやすいです。

 

・若宮社前の出雲井御神水

 

やはり、神社の御由緒やご祭神にはつながりにくい住所名゛出雲井゛がどうしても気になります。出雲とは関係ない、という説明もあるようですが、上記のように京都の下賀茂神社と結びつくのであれば、京都の賀茂神社は、公式には言われないものの、出雲との関係を想定する方はおられるので、やはり出雲との繋がりを考えたくなります。

 

・神津嶽ハイキングコース道中

 

出雲大社の摂社に出雲井神社があります。出雲伝承ではこの神社に関して複数の話があります。一つは出雲の人が初めて大和や伊勢に移住した事を記念して、東出雲の王家が建てた話。また別のものは、元々出雲井神社があり、伊勢に移住した伊勢津彦が勧請して椿大神社を祀った話です。いずれにせよ、移住した時期は文脈から紀元前2世紀頃だと読み取れます。出雲井の信仰がそれだけ古いとなると、葛城にいた出雲王家の分家登美氏(後の三輪氏・賀茂氏)系の人達が、堺市の陶荒田神社や柏原市の金山孫・金山孫女神社に関する伝承(天照大神高座神社の記事で触れました)で語られるように、弥生時代にこの河内の地に広く存在していた可能性を考えたいです。さらに大鳥大社には、出雲の大社造を進化させた大鳥造の本殿もありますし。なお、出雲伝承で枚岡神社に関する話を見た記憶はありません。

 

・最後のあと一登りの所に石標があります

・本宮。枚岡神社創祀の地

 

神津嶽へは、神社の北側から昇るコースで行きました。おおむね階段状の足場の整備はあるものの、展望台まで30分程度登り続けで運動不足の老体には結構こたえました。そこから本宮までも止めを刺すような登りで、平成5年築造の石の社殿前に辿り着けた時の達成感はただならぬものを感じました。当社によると、10月を除く毎月16日に、宮司さんと登拝する行事をやってられるそうです(事前申込要。参加初穂料3000円)。

 

・枚岡山展望台

・奥の高いビルがあべのハルカス

 

(参考文献:枚岡神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 河内」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、梅原猛「葬られた王朝」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍

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