堤根神社(つつみねじんじゃ;門真市宮野町)~気になる゛武蔵の人゛強頸(こわくび)の受難
いわゆる河内王朝の時代に、あの仁徳天皇が土地に田圃が少ないのを憂いて「堀江」を造らせた後、北の河(今の淀川)の塵芥を防ぐために築かせたという「茨田堤(まんだのつつみ)」。神社HPによると、淀川の流れの改修で役割を終えたのちも分断されて残っていたものの、戦後の開発ラッシュにより宅地化されていったことから、神社東方に残る遺跡を守ろうと「茨田堤を守る会」を結成。そのかいあって大阪府の史跡になっています。
神社前はかつて大和と河内を繋いだ行基道です
昭和55年に神社の西にある景雲寺の改修工事現場から、茨田堤の基礎工事に使われただろう丸太類や土器などが出土しており、奈良時代初期にはすでに堤があったことは確かだと考えられています。本殿がまさにその堤の上に鎮座することから、古い由緒があると考えられる門真市唯一の式内小社です。ただ、隣接する公園での掲示によると、平成24年に初めてこの地の発掘調査が行われましたが、鎌倉時代の遺構であるところまでは分かったものの、茨田堤として断定するには至ってないようです。主のご祭神は、茨田連の祖彦八井耳尊。神武天皇の皇子であの神八井耳の兄弟にあたるお方です。「新撰姓氏録」の河内皇別に、〝茨田宿禰。多朝臣と同祖。彦八井耳の後なり。男野現宿禰は仁徳天皇御代に茨田堤を造る。日本紀に合う゛と書かれます。
丁度、夏越大祓の前で、ちのわくぐりが有りました
「日本書紀」の仁徳十一年に、茨田堤築造時の説話が書かれています。この時、築いてもまた壊れ、防ぎにくい所がありました。天皇が夢を見られ、神が表れて教えていわれるのに、゛武蔵の人強頸(こわくび)と河内の人茨田連衫子(ころものこ)を、河伯に奉ればきっと防ぐことができるだろう゛とのこと。早速二人を探して、河伯に人身御供しようとします。強頸は泣き悲しんで水に入れられ、その堤は完成します。衫子だけは丸いヒサゴ(ひょうたん)を二個取って、防ぎにくい河の中に投げ入れて、神意を伺う占いをして、゛河神が祟るので私は生贄にされることになった。自分を必ず得たいのなら、こにヒサゴを沈めて浮かばないようにせよ。そうすれば自分も本当の神意と知って水の中に入りましょう。もしヒサゴを沈められないなら、偽りの神と思うから無駄にわが身を滅ぼすことはない゛結果、ヒサゴは波の上に転がるばかりで沈みません。衫子は死ななかったけれども、堤は完成しました。時の人はその二か所を名付けて、強頸断間、衫子断間といいました。そして、衫子伝承の地がこの堤根神社なのだと神社は説明しています。
拝殿
本殿
紀ではこの話の直後に、゛この年、新羅人の朝貢があった。そしてこの工事に使われた゛との記述が続きます。一方、「古事記」には上記の説話はないですが、関連して゛秦人を役ひて茨田堤及茨田三宅を作る゛と書かれていると、「日本の神々 河内」で大和岩雄氏は注目されます。「和名抄」の茨田郡には幡多郷があり、現在も隣接する寝屋川市に秦、太秦の地名が残っているのです。「新撰姓氏録」の河内国の条には、秦宿禰、秦忌寸、秦人など記されますが、茨田郡幡多郷が彼らの本拠であり、秦氏が茨田堤にかかわっていることは確かだと、大和氏は書かれています。
境内末社。手前から稲荷社、蛭子社、九頭八幡社。蛭子社は昭和32年に西宮神社より勧請と新しいです
同じく「日本書紀」五十年に、茨田の堤に雁が子を産んだ話があり、その同じ話が「古事記」では場所が姫島(大和氏は比売許曾神社の元鎮座地で、現在の大阪市旭区森小路と考えられてます)になっています。大和氏が上記で引用する谷川健一氏の文章によれば、朝鮮の「三国遺事」では、新羅の始祖は卵から生まれる説話があり、その卵はまるでヒサゴのようだったとあるそうです。朝鮮人に多い朴(パク)姓はヒサゴという意味なのだとか。そして、ヒサゴ(ひょうたん)が卵と同じように再生の器であり、しかも天空はひさごの形をしていたと信じられていたと、谷川氏は推測され、日本での盆の墓参りでひさごに祖霊をいれる習俗と結び付けておられました。朝鮮半島の信仰が秦氏によって我が国に持ち込まれて浸透していった可能性を暗示する話であり、茨田堤の地がそれに深く関係するようです。
本殿裏手の三宝宅神社。それぞれ台所の火鎮めとトイレ・お風呂の神様。平成8年に勧請
当神社では「日本書紀」のご由緒により、今でも茨田連衫子が信じ救われた神様として「浮かびひょうたん」伝承が信仰され、人生儀礼・厄除け・家内安全・合格祈願などの願いを持って参拝される続けています。そして、特別なしるしとしてお守り、絵馬にひょうたんを描いているそうです。
伝茨田堤。境内本殿横より
「日本書紀」の神話での、もう一方の武蔵の人強頸がどうにも気になってしまいます。古代の武蔵の国については、あの一宮氷川神社が、无邪志(むさし)国造任命以前からこの地に来住した出雲氏族によって祭られたと「埼玉県の神社」で書かれていたり、同社の世襲宮司の角井家の末裔、西角井正慶元國學院大學教授が「古代祭祀と文学」で、武蔵は出雲民族系統の首長が奉じる神の力で鎮めた国だと言われているようです。東出雲伝承を語る「出雲と蘇我王国」で斎木雲州氏は、武蔵国造を始めとするこの地域の国造がことごとく旧出雲王家(出雲国造家ではない)の人たちで、゛南関東は当時「第二の出雲王国」と言われ、イズモ文化の影響がある゛と書かれています。時期は3~4世紀にその地に入った、と読み取れます。
伝茨田堤。神社裏手より。樟の樹齢は500年以上
出雲伝承では強頸の事は触れられてませんし、武蔵のどんな立場の人かもわかりません。ただ、同じ河内王朝時代の雄略帝の時期にも葛城の一言主神(あるいは高鴨神)が土佐に流された話があり、これについて「仁徳や若タケル大君」で富士林雅樹氏は、出雲族の受難の話だと認識されています。大和岩雄氏も、その雄略帝の時期に、葛城の賀茂氏が木津川市の岡田鴨神社の地に移住させられたろうと論考されてました。これら出雲族受難の話と、可哀そうな強頸の話がどうにも重なる印象が個人的にはしてしまいます。つまり、関東地方の出雲族を圧迫した事を象徴したのではないかしらと感じるのですが、出雲伝承ではこのあたりの話はありません。
(参考文献:堤根神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城市」、梅原猛「葬られた王朝」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)